2012年01月01日
ご挨拶
明けまして、おめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
ブログ、ツイッター、フェイスブックと、さまざまな場所を使っていますが、ここのところ、このナガブロは、もっぱら資料やデータの保管場所になっています。
今年も、自分が気になったことを書き留めたり、これは記録に残しておきたいと思ったことを、ここにクリップしていこうと思います。
それから、もう少し考えをまとめて、まわりのみなさんにお伝えしたり、お伝えしたことについて話し合ってみたいことについては、フェイスブックを使っていこうと思います。
ツイッターでは、自分の気づきや思いつきをリアルタイムに載せていきます。
どうかよろしくお願いいたします。
今年もよろしくお願いいたします。
ブログ、ツイッター、フェイスブックと、さまざまな場所を使っていますが、ここのところ、このナガブロは、もっぱら資料やデータの保管場所になっています。
今年も、自分が気になったことを書き留めたり、これは記録に残しておきたいと思ったことを、ここにクリップしていこうと思います。
それから、もう少し考えをまとめて、まわりのみなさんにお伝えしたり、お伝えしたことについて話し合ってみたいことについては、フェイスブックを使っていこうと思います。
ツイッターでは、自分の気づきや思いつきをリアルタイムに載せていきます。
どうかよろしくお願いいたします。
2011年11月21日
2009年04月08日
ひとまずのまとめ その3
きょうは、補足(肉付け)の第3回目。
3 発言権のあるひとへの働きかけ、巻き込み
たとえば、まちを歩いていて、「どうして、こうなっちゃったの??」と思うことがあります。
・ まちなかの水路には蓋がかかっていて、本来水辺にある音や、風が消えました。
・ まちなかにある、歴史を感じさせる建物が、機能的、効率的なことを重視する考えかたの中で、姿を消したり、景色の中に埋没したりしています。
・ まちなかに「緑」がなく、またゆっくりと休んだり、立ち止まって話をしたりする「場」が、なくなっているようです。
・ 商店街のお店で、朝から昼間、夜まで、ずっとシャッターが下りている店があちこちにあり、営業しているお店も少ないようです。
こういった「??」なこと、「何とかならないかな」と思うことを、まちやまちづくりを語り合う「場」で、話し合うことがよくあります。
そう言う場合のあてくしなんかの立場は、もっぱら、通行人、消費者といったところでしょうか。
あまりそこで買い物をしても居ないと、消費者とも言えないかなとも思いますが。
その話し合いでは、たいてい参加者同志が、理想論で意気投合し、現実的な方策がなくて溜め息つく、っていう展開が多いのです。
そりゃあ、まちなかの水路の蓋をすべて撤去して、本来水辺にある音や、風を取り戻そうという理想を語り合うのも、必要です。
そういう理想を言えなくなったら、この社会も住みづらいものでしょう。
しかし、あえて言わせてもらえば、「発言権」のあるひと(←表現は、不適切、かつ挑発的ですが、お許しくださいませ。)からの反論に対して、どう応えるのかということまで、その「場」で話しないとアカンやろ、と思うのです。
※ ↑ ↑
もちろん、自分自身ができていないから、自戒をこめての呼びかけです。
反論の例
・ 水路の蓋のおかげで、この狭い道に車が入ってこれるようになった
・ 住んでもいない古家だから、取り壊して駐車場に活用している
・ シャッターを下ろしていても、ほかのところで稼いでいるから困らない
理想を語るのなら、そういう「発言権」のあるひとたちを、こちら側に巻き込む、そのためにどう働きかけるかの話し合いを深めないといけないんぢゃないかなと思うのです。
3 発言権のあるひとへの働きかけ、巻き込み
たとえば、まちを歩いていて、「どうして、こうなっちゃったの??」と思うことがあります。
・ まちなかの水路には蓋がかかっていて、本来水辺にある音や、風が消えました。
・ まちなかにある、歴史を感じさせる建物が、機能的、効率的なことを重視する考えかたの中で、姿を消したり、景色の中に埋没したりしています。
・ まちなかに「緑」がなく、またゆっくりと休んだり、立ち止まって話をしたりする「場」が、なくなっているようです。
・ 商店街のお店で、朝から昼間、夜まで、ずっとシャッターが下りている店があちこちにあり、営業しているお店も少ないようです。
こういった「??」なこと、「何とかならないかな」と思うことを、まちやまちづくりを語り合う「場」で、話し合うことがよくあります。
そう言う場合のあてくしなんかの立場は、もっぱら、通行人、消費者といったところでしょうか。
あまりそこで買い物をしても居ないと、消費者とも言えないかなとも思いますが。
その話し合いでは、たいてい参加者同志が、理想論で意気投合し、現実的な方策がなくて溜め息つく、っていう展開が多いのです。
そりゃあ、まちなかの水路の蓋をすべて撤去して、本来水辺にある音や、風を取り戻そうという理想を語り合うのも、必要です。
そういう理想を言えなくなったら、この社会も住みづらいものでしょう。
しかし、あえて言わせてもらえば、「発言権」のあるひと(←表現は、不適切、かつ挑発的ですが、お許しくださいませ。)からの反論に対して、どう応えるのかということまで、その「場」で話しないとアカンやろ、と思うのです。
※ ↑ ↑
もちろん、自分自身ができていないから、自戒をこめての呼びかけです。
反論の例
・ 水路の蓋のおかげで、この狭い道に車が入ってこれるようになった
・ 住んでもいない古家だから、取り壊して駐車場に活用している
・ シャッターを下ろしていても、ほかのところで稼いでいるから困らない
理想を語るのなら、そういう「発言権」のあるひとたちを、こちら側に巻き込む、そのためにどう働きかけるかの話し合いを深めないといけないんぢゃないかなと思うのです。
2009年04月07日
ひとまずのまとめ その2
きょうは、補足(肉付け)の第2回目。
2 いろいろな「場」でのひととひとのつながりの不思議
あてくしが、長野のまちに出始めたのが、平成15年。
それまでは、千曲市に住んでいて、そこから県立高校の事務職員としての勤務先である信州新町に通っている毎日でした。
職員組合の役員をやっていたので、そちらの活動にけっこう時間をかけておりました。
そしてこの年、長野市の職場に転勤することになり、それに伴い組合の役員を退任し、住まいも長野市へと移しました。
ここから、長野のまちとの「縁」はかなり深まったと思います。
まず最初の「場」は、市内のNPO(関係者のみなさん)との出会いでした。
またもうひとつ、長野市市民公益活動センター(スタッフのみなさん)との出会いも大きかったですね。
そしてその「出会った縁」は、いろいろな要素(人間関係、イベント参加など)を引き込みながら、日増しに飛躍的に、あるときは爆発的に、拡大、融合、深化をしていきました。
たとえば、以前出会った人と、まったく予想もしないところで、また出会う。
ふとしたきっかけで、別の立ち位置に居ると思っていたひと同志が、ぢつは知り合い、友人、仲間なんてことを知ったり。
以前に書いた「にぎやかしの法則」について、頭でどうこうではなく、体で感じてしまう、人脈や場が不思議につながっていく、そんな実感を覚えました。
自分とまったく同じ、何から何まで同じ価値観ではなくても、共感できるところが見つけられれば、同じ「場」に参加できる、思いが重なる「場」を一緒に作れる、自分の仲間をそこへ連れて行ける、そんなことが可能になると、この6年ほどで実感しました。
この実感が、タイトルにある「いろいろな「場」でのひととひとのつながりの不思議」です。
平成15年に、今のこの実感を目標にしていたわけでもないですし、そもそも何も目標なんて持たずに、歩いてきて、行き着いた場所がここだったというのが、ほんとのところです。
でも、決して神懸かり的に、これを「運命」だと、あてくしは思っても居ませんが。
2 いろいろな「場」でのひととひとのつながりの不思議
あてくしが、長野のまちに出始めたのが、平成15年。
それまでは、千曲市に住んでいて、そこから県立高校の事務職員としての勤務先である信州新町に通っている毎日でした。
職員組合の役員をやっていたので、そちらの活動にけっこう時間をかけておりました。
そしてこの年、長野市の職場に転勤することになり、それに伴い組合の役員を退任し、住まいも長野市へと移しました。
ここから、長野のまちとの「縁」はかなり深まったと思います。
まず最初の「場」は、市内のNPO(関係者のみなさん)との出会いでした。
またもうひとつ、長野市市民公益活動センター(スタッフのみなさん)との出会いも大きかったですね。
そしてその「出会った縁」は、いろいろな要素(人間関係、イベント参加など)を引き込みながら、日増しに飛躍的に、あるときは爆発的に、拡大、融合、深化をしていきました。
たとえば、以前出会った人と、まったく予想もしないところで、また出会う。
ふとしたきっかけで、別の立ち位置に居ると思っていたひと同志が、ぢつは知り合い、友人、仲間なんてことを知ったり。
以前に書いた「にぎやかしの法則」について、頭でどうこうではなく、体で感じてしまう、人脈や場が不思議につながっていく、そんな実感を覚えました。
自分とまったく同じ、何から何まで同じ価値観ではなくても、共感できるところが見つけられれば、同じ「場」に参加できる、思いが重なる「場」を一緒に作れる、自分の仲間をそこへ連れて行ける、そんなことが可能になると、この6年ほどで実感しました。
この実感が、タイトルにある「いろいろな「場」でのひととひとのつながりの不思議」です。
平成15年に、今のこの実感を目標にしていたわけでもないですし、そもそも何も目標なんて持たずに、歩いてきて、行き着いた場所がここだったというのが、ほんとのところです。
でも、決して神懸かり的に、これを「運命」だと、あてくしは思っても居ませんが。
2009年04月06日
ひとまずのまとめ その1
昨日の日記に書いた件ですが、箇条書きだったので、書いた本人もたぶん少ししたら、きっと忘れてしまいそうです。
というわけで、もう少し補足(肉付け)しておきます。
※ 昨日の日記
覚え書きで、大暴れ(全体のイメージ 篇)
1 善光寺
長野のまちについて、何かを語るとき、善光寺の存在は外せない。
というか、まず善光寺は押さえておこうねというのが、無難なまとめかた。
観光にしろ、まちのなりたちにしろ(何せ、門前町!)、風景にしろ、まぁ善光寺から話し出す。
しかし、ぢゃあ、どれだけのひとが善光寺のことをどれだけ知っているかというと、善光寺について知らない、語れない人が、けっこう多い。(もちろん、あてくしも、です。)
あてくしも数年前に、この長野市に引っ越してきて、まちやまちづくりに関して話し合う、いろいろな「場」に出てみて、そこでの話し合いをするたびに、つくづく思いました。
「みんな、いろいろなことに、善光寺を引き合いに出すくせに、善光寺のこと知らなさすぎ!」
もちろん、ガイドができるくらいのレベルにまで達するには、かなり勉強しないといけません。
系統立って、継続的に、研究者のお話を聴いたり、本を読んだり、実地に見学とかもしないとだめでしょうね。
ただそこまでは無理にしても、せめて善光寺を知らない人に、善光寺がどんなお寺なのか(歴史、文化、仏像、建造物などなど)くらいは話せるくらいにならにゃあ、とあてくしは思うのです。
そして、そのための「学びの場」は、その気になれば、頻繁に各地で開かれていることにも気づくはずです。
※ たとえば、
長野郷土史研究会
歴史の町長野を紡ぐ会
というわけで、もう少し補足(肉付け)しておきます。
※ 昨日の日記
覚え書きで、大暴れ(全体のイメージ 篇)
1 善光寺
長野のまちについて、何かを語るとき、善光寺の存在は外せない。
というか、まず善光寺は押さえておこうねというのが、無難なまとめかた。
観光にしろ、まちのなりたちにしろ(何せ、門前町!)、風景にしろ、まぁ善光寺から話し出す。
しかし、ぢゃあ、どれだけのひとが善光寺のことをどれだけ知っているかというと、善光寺について知らない、語れない人が、けっこう多い。(もちろん、あてくしも、です。)
あてくしも数年前に、この長野市に引っ越してきて、まちやまちづくりに関して話し合う、いろいろな「場」に出てみて、そこでの話し合いをするたびに、つくづく思いました。
「みんな、いろいろなことに、善光寺を引き合いに出すくせに、善光寺のこと知らなさすぎ!」
もちろん、ガイドができるくらいのレベルにまで達するには、かなり勉強しないといけません。
系統立って、継続的に、研究者のお話を聴いたり、本を読んだり、実地に見学とかもしないとだめでしょうね。
ただそこまでは無理にしても、せめて善光寺を知らない人に、善光寺がどんなお寺なのか(歴史、文化、仏像、建造物などなど)くらいは話せるくらいにならにゃあ、とあてくしは思うのです。
そして、そのための「学びの場」は、その気になれば、頻繁に各地で開かれていることにも気づくはずです。
※ たとえば、
長野郷土史研究会
歴史の町長野を紡ぐ会
2009年04月05日
覚え書きで、大暴れ(全体のイメージ 篇)
昨日、4日(土)に参加した「アフター路地サミット」では、ワークショップをしました。
昨年の秋に開催の全国路地サミットin長野に参加したかたたちから寄せられた意見等をもとにして、長野の路地とまちづくりに関して、グループに分かれて、自由に項目出しをするというもの。
参加者には、地元長野の人も居れば、県内の少し離れたところからおいでのかたも、そして県外からのかたも居て、いろいろな意見が集まりました。
あてくしが出したのは、つぎの3点。
1 善光寺について
2 いろいろな「場」でのひととひとのつながりの不思議
3 発言権のあるひとへの働きかけ、巻き込み
昨年の秋に開催の全国路地サミットin長野に参加したかたたちから寄せられた意見等をもとにして、長野の路地とまちづくりに関して、グループに分かれて、自由に項目出しをするというもの。
参加者には、地元長野の人も居れば、県内の少し離れたところからおいでのかたも、そして県外からのかたも居て、いろいろな意見が集まりました。
あてくしが出したのは、つぎの3点。
1 善光寺について
2 いろいろな「場」でのひととひとのつながりの不思議
3 発言権のあるひとへの働きかけ、巻き込み